徳山村を巡る思い出の山旅
2006-09-18


徳山村がいよいよ湖底に沈む。今日は過去の思い出に浸ろう。

 初めての徳山村行きは昭和53年10月のの冠山登山であった。この年山岳会に入ったものの奥美濃の山につきあってくれる人はなく単独であった。まだマイカーはなく土曜日の夜にレンタカーを借りて走った。揖斐川沿いの道が不安で根尾村経由で入村した。峠を下ると霧に沈んだ徳山の里が幻想的であった。正確にいえばこの年の5月に能郷白山に登って郡界を踏んでいるから2回目ということである。
 『樹林の山旅』の復刻版が昭和58年に出版されてすぐに買った。金ヶ丸谷の紀行文が良かった。偵察にと門入に走った。今度は揖斐川沿いの道だ。度々の遠出にレンタカーは不便で不経済なのでマイカーを買った。愛車は中古の日産チェリーであった。まだ現在のような2車線の道路はなく地形を忠実になぞった狭い道でこわごわ走った。名古屋を朝6時に出て門入に着いたら11時を回っていた。近くて遠い徳山村であった。
 村の人に熊のことや金ヶ丸谷の様子を伺うと京都の登山者が遭難して亡くなった。家族が心配して村に来て捜索を依頼されて谷で倒れていることが分かった、という。あんたも気をつけなさい、熊よりも谷の方が怖い。入るのはお止しなさい、と忠告されて帰った。
 それからあちこちの山を登ったが千回沢山、不動山が手ごわい山であった。特に千回沢山は徹底ガイドの取材を兼ねていたから単独で挙行した。印象深い遡行であった。後日、大垣山岳協会から『美濃の山』1巻を見て驚いた。私と同じ日に登山していたからだ。
 下る際見た草が踏みつけられた跡は彼らだったのである。私は左又を遡行し、彼らは25m滝を高巻く右叉を遡行している。私のルートは遠回りになり後から来た彼らに追い抜かれたのである。
 その後は足踏み状態が続いた。中々いい仲間が得られなかった。クライミングが出来、ヤブを嫌がらず、きつい登山でも向っていく、という三拍子揃った登山者は稀有としか言いようがない。
 W君が奥美濃の沢に理解を示し付き合ってくれてからようやく金ヶ丸谷を遡行できた。昭和58年の偵察から実に23年が経過していた。その時の日記を転載しておこう。
2005年10月10日
  奥美濃・三周ヶ岳を巡る谷歩き              2.5万図 広野
念願の金ヶ丸谷の遡行と根洞谷の下降についに成功した。
 『樹林の山旅』の世界がここではまだまだ残っていた。清冽な流れ、ブナ、トチ、ミズナラなどの大木の森、これらが渾然一体となって私達を迎えてくれた。緩やかな谷を悠々と溯り、渓魚に見とれた。夥しいブナの森の中に一夜を過ごした。胸まで浸かった谷の深さも一跨ぎのせせらぎとなり、草付の中に絶えた。
 10/8の夜、名古屋は雨だった。どうしようか、行くまいか、中止するか。大いに迷った。W君も私も休暇に極めて恵まれない者同士である。簡単には中止できない。とりあえず山の中で飯を食いに行く、とだけ決意。W君の職場に向った。W君は迷いはなかった。いつものヤマナカで買い物を済ます。名神高速に入ってしばらく走るともう路面は乾燥していた。大垣付近は降った形跡もない。ICで降りると徳山ダム工事現場までまっしぐら。
 工事現場に近い宿舎は電灯が明々としていた。堰堤工事、国道工事、湖底と過ぎると明かりはなく真っ暗な中を走る。門入まではまだ遠いので戸入の小屋で一晩を明かす。ここは照明のついたトイレもあり、過ごしやすい。今回は先回の失敗を考えて飲酒をセーブした。
 10/9はぐっすり寝た。泡盛のせいであろう。6時起床と山の朝にしてはスローであるのはお互いに疲れた中年の域にある男だからか。とにかく疲れがとれないまま次の週へと過ぎていく。
 食欲はあまりないが無理にでもいなりすしを食べる。また門入へ走る。昨夜のうちから朝にかけてかなりな車が奥へ走っていったらしい。今日は全国的な連休できのことりで賑わうか。

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[沢登り]
[奥美濃の山]

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