花見の宴の後2018年04月02日

天白川緑地の桜並木
 3/31は天白川沿いの桜は全開となった。それに呼応して桜の花の下ではブルーシートを敷いて家族ぐるみで宴会もたけなわだった。しかも路上駐車が多々あった。警察もこの時ばかりは甘いのだろうね。
 4/2の今朝、プラごみを出しに行った。エレベーターで乗り合わせた住民が言うには宴会の後のごみを近隣のマンションのごみ集積場に大量廃棄してあったとのこと。
 非常にマナーが悪い。自分たちで飲み食いしてなぜ持ち帰らないのか。マンションの清掃を受け持つ人は今朝から分別に大わらわとか。近くにスーパーがあるために手軽に買い物して飲み食いの後のごみは捨ててしまうのだろう。無粋な花見客である。

北ア・白馬乗鞍岳スキー登山2018年04月02日

白馬乗鞍岳頂上から見た小蓮華山と向こうは三国境、白馬岳
 1月から3月までスキーを履いたのは2回だけ。本格的な滑りを味わうこともなくシーズンが終わりまた来年まで長いブランクができる。膝の痛みは少しは残るが歩行には問題なく、登山にも支障がない。但しスキーだけは咄嗟の動きで関節に影響があると考えて踏みきれなかった。既にブランクは2015年を最後に中2年になる。意を決して行こうと決めた。
 行く先は白馬乗鞍岳だ。乗鞍岳は未経験であるが天狗原までなら蓮華温泉と朝日岳スキー登山のため数回は行った。天狗原から1時間ほどで登れる。
 3/31の17時天白を出発。名古屋ICまでは絶好の行楽日和かクルマが多く渋滞気味だった。入線は18時前になった。
 東名から名神にかけてもクルマは多めで小牧JCT手前からとうとう渋滞になったが中央道へは空いている。恵那SAに着いたのは18時50分。
 夜空には春満月が明々と浮かぶ。何と恵那山の真上にあり、黒々とした恵那山を明るく照らす。天照大神の胞を埋めたという伝説が彷彿する。春満月は恵那山トンネルの手前まで見えた。そして伊那谷に出ると今度は南アルプスの上に出ている。
 中央道から長野道へ入り、梓川SAで一休みする。安曇野ICから出てR19経由で白馬方面へ走った。周囲には雪の断片すらないが、夜目には高々と北アルプスの白い嶺が並ぶ。
 白馬村からさらに小谷村へ。白馬駅前のにぎわいを過ぎると途端に灯が消えたように暗くなった。行き交うクルマはなく栂池スキー場へ走る。心細いほど暗い山道をくねくね走ると雪明かりでほっとするようなエリアに出た。まだ10時前だが通りは宿の灯が消えて寂しい。スキーブームが去ってボードが支えている。少子高齢化は観光地にも影を落とす。
 駐車場には9時55分着。梓川SAで車内を片付けておいたからシュラフを広げて寝るだけだ。
 4/1朝明るさに目覚めると5時。早過ぎるが二度寝すると起きられなくなるのでシュラフを片付け、荷物室を整理。寒いので羽毛ジャケットを着る。食事の準備をした。昨夜買っておいたアルミ鍋の天ぷらうどんを温める。それを食べながら寿司をつまむ。終わると服装の準備だ。羽毛ズボンの上にオーバーズボンを履くと準備は終わった。次はパッキングだ。7時、ゴンドラ乗り場へ偵察に散歩する。まだだれも居ない。そのうち7時30分になったのでチケット売り場に行く。1920円。長野県所定の登山計画書をプリントアウトしたものを添えてチケットを購入。8時にゴンドラが動き出す。
 終点駅でいったん下車して、スキーを履いて、ロープウェイ乗り場へ滑る。また外して並ぶ。自然園駅に着いたのは9時7分だった。1829mとあった。駅舎を出る前に小谷村の山案内人から登山者向けの注意喚起があった。ひよどり峰は雪崩やすいので登らないで欲しいこと、直下の林道滑降は雪崩の常習地帯があるので立ち止まらずスピーディーに行動して欲しいとのこと。また雷鳥が白馬乗鞍岳に向って移動中なので脅かさないで欲しいとのことだった。3月初旬に行方不明になった人がいるので帽子など所持品と思うものを見つけたら連絡して欲しいと言われた。
 9時35分、外の雪面でスキー板にシールを貼って、いよいよ出発だ。尾根に移ってシールを効かせながら歩く。20分ほどで息が切れるので休む。持ち重りする食べ物を飲んだり食べたりする。朝食は6時ころだからもう3時間は経過しているからだ。特に林檎は美味しいし重いので休むたびに食べた。また少し登っては休んだ。2204mの天狗原とは比高375mで1時間強程度。高度計を見ると2000mを越えたら急に力が湧いた。
 11時7分天狗原に到着。ここで小休止、11時20分出発。急斜面に取り付く。シールを効かせながら登る。一気には登れず、呼吸を整えてまた前進をくりかえす。何とか端っこに着いたが山上は広々している。
 12時10分ケルンの建つ乗鞍岳頂上に着いた。夏道は歩いた記憶がないので新鮮な角度で小蓮華山と三国境の雪稜を眺めた。向こうは黒い露岩を張り出した白馬岳である。三国境からは雪庇の張り出しがすごい。未踏の雪倉岳、悪戦苦闘して登った朝日岳が見える。素晴らしい眺めである。
 12時30分、小高く盛り上がった2456m辺りまで行ってシールを剥がす。いよいよ滑降。雪質は粉雪で抵抗なく曲がる。あっという間に急斜面の降り口に着いた。雪質の良いところはターンしたが、腐っているところは曲げにくいのでキックターンで滑降した。北東へ行くほど腐っている気がした。上手いスキーヤーは悪雪でも滑降してゆく。
 天狗原に滑り降りた。また小休止。13時前、天狗原を後にする。まずはロープウェイ乗り場を目指す。広すぎて目標がつかみにくい。悪雪のなので斜滑降とキックターンで下る。一旦林道に下ったがR乗り場で水を買った。栂の森駅までの案内をもらう。結局は林道が近道のようだ。今は至るところスキーの跡が付いているのでどこでも行けそうだが知らないととんでもない所に下る。
 林道は余り走らない。大腿筋だけが使われるせいか疲労感がたまる。何とか栂の森駅下に来たが、Rで下るのはもったいない。ゲレンデを下ったり、林道を下ったり、またゲレンデに戻って下った。結局15時過ぎにゴンドラ乗り場に着いた。目いっぱい遊ばせてもらった。
 駐車場に戻るとガラガラだったが満杯に埋まっていた。身支度を終えて白馬の湯に向った。やや熱めである。入浴後はR148をひたすら走った。途中大町のスーパーでジンギスカンのパックを買った。帰路は朧月夜であった。

過去の記事
「春の蓮華温泉 山スキー行 ―」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/05/06/4289561

「リベンジ成功!春の朝日岳大滑降 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/05/06/5065719

「北アルプス・金山沢滑降! 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/04/30/6794363

映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」観賞2018年04月02日

 前評判の高い表記の映画を見に行った。映画館は昨年開館した日進市赤池にある『プライムツリー赤池』4FのTOHOシネマズである。天気も良いのでポタリングで行った。調べると約3.5kmくらいだった。14時30分に出て15分で着いた。
 映画COMの解説「名優ゲイリー・オールドマンがイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルを演じ、第90回アカデミー賞で主演男優賞を受賞した歴史ドラマ。チャーチルの首相就任からダンケルクの戦いまでの知られざる4週間を、「つぐない」のジョー・ライト監督のメガホンで描いた。
 第2次世界大戦初期、ナチスドイツによってフランスが陥落寸前にまで追い込まれ、イギリスにも侵略の脅威が迫っていた。連合軍が北フランスの港町ダンケルクの浜辺で窮地に陥る中、就任したばかりの英国首相ウィンストン・チャーチルの手にヨーロッパ中の運命が委ねられることに。
 ヒトラーとの和平交渉か徹底抗戦か、究極の選択を迫られるチャーチルだったが……。チャーチルを支える妻クレメンティーンに「イングリッシュ・ペイシェント」のクリスティン・スコット・トーマス、秘書エリザベス役に「ベイビー・ドライバー」のリリー・ジェームズ、英国王ジョージ6世役に「名もなき塀の中の王」のベン・メンデルソーン。
 脚本は「博士と彼女のセオリー」のアンソニー・マッカーテン。アカデミー賞では主演男優賞のほか、オールドマンの特殊メイクを担当した日本人メイクアップアーティストの辻一弘らがメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞した。」とあり、日本人のメイクアップが話題になった。オールドマンがこんなにも変わるのかというサプライズがあった。
 出演者が数名に絞られているが、中身は大きな歴史のうねりを描いた。名政治家は演説がうまい。言葉で多数の人を動かす。敵役にされたヒトラーの演説も中々のものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=T2jhno1BL3w
 ドイツ国民を奮い立たせる扇動者の見本である。WW1で敗戦後のワイマール体制からの脱却を訴える。
 一方、受けて立つチャーチルはどうか。
チャーチルの肉声が聞こえる演説
https://www.youtube.com/watch?v=BYddUT_547A
チャーチルの人物像をまとめた
 https://www.youtube.com/watch?v=s_ssvsIY7Oo&t=1s

 映画を見て思ったことはチャーチルの偉さは困難から逃げなかったこと。
 それは英国の宣教師で登山家だったW・ウエストンは『日本アルプス 登山と探検』のまえがきの「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。
 その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」 ウォルター・ウェストン(1861-1940)『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー) 」と書いた。
 騎士道の国が武士道の国を認めたのである。
 アルピニズムの国らしく困難から逃げずドイツに挑んだ。騎士道の国ゆえに困難から逃げなかった。日本は負けたが欧米の奴隷になるまいと思って戦った。日本は多大な犠牲をはらい、絶滅寸前まで戦ったから国体が守られた。
 チャーチルもまた英国にドイツの国旗が立っても良いのかと、問うた。「never」と叫んだ。多くの犠牲を生んだが国を守る気概を示した。言葉一つで流れが変わったのだ。
 一見の価値があります。

ヒトラーとチャーチルの映画の通低はユダヤ人2018年04月06日

 『夜と霧』と『ウインストン・チャーチル』の2本を観た。どちらも根底にはユダヤ人が問題としてある。被害者としてユダヤ人が強調されている。
 以下のHPの主張を観るとチャーチルはユダヤ金融財閥の代理人だった。英国のためにではなく、ロスチャイルド家のために戦争をしたのである。
 映画では英国と世界を救ったなどと英雄視される。ハリウッド映画はユダヤ人のものゆえに真実は描かれないわけだ。ヒトラーを悪者として描く。ユダヤ人をホロコーストに導いたのはユダヤ人側にも原因があった。
 ロシア革命でもロシアの国民が皇帝を倒したのではなく、アメリカからロシアに移住したユダヤ人がロシア人を大量虐殺して成立したロシア・クーデターと言われる。その後はユダヤ人がソ連建国へと導く。
 いわばチャーチルとソ連指導者は仲間内だ。ドイツを叩けば欧州の半分はソ連に盗られる。根底にはユダヤ人の利益になる。
 あの映画が尻切れトンボで終わるのもこうした背景があるがらだろう。

 https://www.youtube.com/watch?v=S6Ey_NZPGiQ
 馬渕睦夫 世界規模で隠されるロシア革命の謎!!馬渕睦夫が徹底解説!!

 https://www.youtube.com/watch?v=tZfDtuZO5oU
 【おそロシア】(馬渕睦夫 解説)学校で学んだロシア革命は完全に嘘である!隠されたユダヤ人の正体とは?!

 
 http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc622.html
  ロスチャイルド家の代理人  チャーチルの反撃

 ヒトラーが1936年に立てた計画では、1938年にオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドを併合、そして後にソ連を占領し、作戦は1943年に終了する予定になっていたという。しかもその間、イギリス、フランスは無干渉でいるだろうと計算していたらしい。
 そして、ヒトラーが計画していた「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、「ユダヤ人の絶滅」ではなく、ユダヤ人たちを東方地域へ移住させることだったという。

 しかし、計算が狂ってしまった。特に1940年5月11日にイギリスの宥和派であるチェンバレン首相が解任され、チャーチル首相が登場すると、大きく計算が狂ってしまったという。

 イギリスの対ヒトラー政策を、「宥和」から「全面対決」へ突然変えた男、チャーチル。彼はナチスの脅威からヨーロッパを救った平和の使者だったのか? それとも……
             中略
 以上はソースにアクセス

 このスターリンとの対決の前に、ドイツはオランダだけでなく、ベルギー、ルクセンブルクを占領し、破竹の勢いでイギリス海峡に到達。さらにムッソリーニのイタリアが南からイギリス・フランスに宣戦布告し、フランスを挟撃する形を取った時には、フランス政府は逃げ出してしまったのである。

 1940年6月14日、ドイツ軍がパリへ無血の入城を果たし、かの憎むべき屈辱の条約を締結したヴェルサイユ宮殿に、いまはクレマンソーの姿はなく、ヒトラーの有頂天にのぼりつめる姿が代わりにあった。パリ陥落……
        〈中略〉

 ユダヤ人にとってただひとつ残された希望、それはイギリスのほかになかった。ウィンストン・チャーチルの両肩にすべての責任が重くのしかかってきた。ところがこの好戦家は、周囲に重厚な人材を揃えていたため、たじろぐどころか身を乗り出して戦闘を呼びかけた。
 ヒトラーが休戦を申し入れても、それを蹴ったのがチャーチルであった。チャーチルは、イギリスの敗北を避けるための首相ではなく、ナチズムを倒すための首相、として選ばれていたからである。チャーチルに与えられた任務は、戦勝に向かう道であった。

 それまで石炭を使っていた軍用船に石油を使うよう海軍を大改革した最初の男、それがチャーチルであった。史上空前の海軍予算を使い、海軍大臣としてヴィッカースやアームストロングの造船事業に莫大な金を投じてきた。空を見上げれば、航空大臣としてイギリス空軍の生みの親がチャーチルであれば、軍需大臣として戦車という動く兵器を戦場で自ら考案したのも同じチャーチルであった。しかもこれら機動部隊への燃料補給のため、中東の石油会社の株をイングランド銀行の金で買収させてしまった。

 近年の企業番付では、ヨーロッパ1位が「シェル」、2位が「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油)という順位が不文律となっている。後者はBPと略して呼ばれ、つい先年、1987年に株が民間に公開された時には史上最大規模のためロンドン・シティーが大騒動となった。石油王ロックフェラーの本拠地「スタンダード石油オハイオ社」を完全買収し、鉱山王グッゲンハイム家が支配してきた世界最大の産銅会社「ケネコット」も買収したのが1980年代のBPの姿だ。このBPの株を海軍に買わせたのが、ほかならぬチャーチルだったのである。そのためウォール街では今日でも、チャーチルは世界一の投資家とみなされている。

 チャーチルは戦争が面白くてならなかった。インド、エジプト、南アという大英帝国植民地の3C拠点で、原住民を苦しめ抜いた戦争のなかから誕生したチャーチルが、今や独裁者ヒトラーを倒して自ら英雄になろうという野望を抱いていた。


               ◆


 ところがこの人物、単純な戦争屋ではなかった。ほかに別の目的をもって活動してきた。侵略の急先鋒として、植民省のナンバー2「次官」から商務院に移って総裁のポストに就くと、ロスチャイルド一族の貿易のために走り回り、次いで情報機関のボスとして内務大臣を務めたあと、海軍大臣となっては艦船を激増させ、軍需大臣となっては戦車の生産に没頭した。さらに陸軍大臣・航空大臣・植民大臣と軍事世界のトップを歴任したが、いずれのポストにあっても、ほかに類のない軍備増強の足跡を残してきた。細菌爆弾の研究さえ命じたことが明らかにされている。

 この男が大蔵大臣という要職を手にしたのが1924年、その翌年にチャーチルが何をしたかと言えば、シティーのロスチャイルドやゴールドシュミットなど五大金塊銀行がボロ儲けをした金本位制の復活という一大経済政策であった。第二次大戦の開戦と共に直ちに海軍大臣となってしきりに腕をさすってみたが、チェンバレンのドイツ融和政策の前になす術もなく、首相を猛烈に批判してきたチャーチルである。悲願であった首相のポストを手にして、そのうえ国防大臣を兼務することになったのであるから、戦争屋にはこたえられなかった。

                ◆

 チャーチルは間違ってもヒトラーを倒した英雄ではなかった。イギリスの軍需産業に火を付け、そのためヒトラーとナチズムを生み出した戦争の挑発者、特にナチズムに対するドイツ国民の共感を誘発した男、第二次大戦の要因を自らの手で生み出した男、それがチャーチルの過去であった。そして自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならなかった。その男の出番が到来したのである。

 “チャーチル首相の閨閥”を系図でみると、従兄のチャールズ・チャーチルが、19世紀全米一の富豪で鉄道王ヴァンダービルトの娘と結婚していたため、首相は一文無しのような顔をしながら、一族には金がうなっていた。従姉リリアン・チャーチルは、イングランド銀行総裁とモルガン・グレンフェル創業者のグレンフェル一族と結婚し、これまたロスチャイルド家とモルガン家という世界二大富豪を掌中にしていた。チャーチル本人はマルボロ(モルバラ)公爵家に属する最高位の貴族ファミリーで、1953年にガーター勲章を授けられて、サーの称号で呼ばれるようになり、チャーチル夫人は、“レディー”と呼ばれるようになった。

                ◆

 チャーチルは若くして、ロスチャイルド一族に惚れ込み、南アのボーア戦争に参戦する直前、21歳のときにロスチャイルド邸のパーティーに招かれていた。

 「ロスチャイルド卿は素晴しい感覚の持主で、まことに博識です。このように賢い人に会って話を聞くことができるというのは、実に貴重な体験です」

 このようにしたため、母に手紙を出していた。この文面にあるロスチャイルド卿は、MI5“スパイキャッチャー”ヴィクター・ロスチャイルドをパーティーの14年後に生み落とす家族、当時のイギリス政界を動かしていたユダヤ王の当主だった。

 チャーチルの惚れ込みようは尋常なものでなく、終生ロスチャイルド家の代理人として働いたが、戦後、南アの「アングロ・アメリカン」や「リオ・チント」の資金を糾合してカナダに巨大発電プロジェクトを成功させ、アンソニー・ロスチャイルドとエドマンド・ロスチャイルドを感激させたのが、チャーチルだった。

 「私が老いても友情がこわれないというのは嬉しいことです」

 チャーチルはその時ロスチャイルド宛てにこう手紙を書いたが、この開発事業というのが、カナダのチャーチル河にあるチャーチル滝のダム建設で、これがのちにロスチャイルドの原子力帝国を築く出発点となり、わが国のウラン輸入に大きな道を拓くのである。ロスチャイルド家の誠実な代理人で好戦家、これがチャーチルの隠された最大の特質であった。ロスチャイルド財閥のメンバーとして、この男が首相の座についた瞬間、イギリス国内の反ユダヤ勢力は一掃され、上流社会の動揺は遂に鎮静された。ロスチャイルド財閥は崩壊していなかったのである。

以上、広瀬隆著『赤い楯』(集英社)より

身にしみる桜鯛なる潮汁 拙作2018年04月07日

 もう葉桜になった。それでも天白川沿いの桜並木のぼんぼりに点灯された。だれも通らない寂しい緑道である。蕪村と同時代の俳人・加舎白雄の句をふっと思い浮かべる。

     人恋し灯ともしころをさくら散る

人口に膾炙した俳句である。

 さて、今日は激安スーパーをのぞくと愛媛県産の真鯛のあらが見つかったので求めた。4パックくらいはあった。鯛の刺身も良いが、今夜も鯛の潮汁である。
 3/21以来である。まず下ごしらえで塩を振り、少し置く。鍋に霜降り用のお湯を沸かしておく。別の鍋には昆布を適宜用意して浸しておく。
 熱湯が沸いたらあらを掃除する。血あいは古い歯ブラシで落とす。これが生臭みのもとらしいので丁寧に落とす。昆布の入った鍋も点火。洗ったあらを入れて煮上がるのを待つ。
 結構なあくが出るので掬っては捨てる。火が通ったところで醤油を落とし味を調える。昆布と鯛の上品な出しが効いているので塩味は少なくても美味しい。体にしみわたる美味しさである。

 ところで鯛は季題になるらしい。歳時記には「桜の咲くころ産卵のために内海や沿岸に来集する真鯛のこと。産卵期を迎えて桜色の婚姻色に染まることと、桜の咲く時期に集まることから桜鯛という。」通りであらのパックも多かったのだ。

恵贈 川端守・東紀州10マウンテンの会『東紀州の山々』2018年04月10日

 2018年4月1日 風媒社刊。315ページもある。 副題には<東紀州の10マウンテンの会>18年の記録となっている。川端会長がこまめに記録された。出版を機に会は解散するともいう。
 私とはナカニシヤ出版の『新日本山岳誌』(2005年)の取材が始まったころに知己を得た。当時は松阪市以南に日本山岳会会員が居なかったこともあり、『鈴鹿の山』(風媒社)の山中保一氏から尾鷲市の山に精通した川端氏を紹介された。1998年ころだからかれこれ20年の長きにわたる交誼を得てきた。
 出版を終えてもガイドブックの取材の度に尾鷲市馬越町の喫茶店「山帰来」に立ち寄ったりした。山談義に花を咲かせたことがあった。その際に東紀州10マウンテンの会のことは聞かされていた。それがもう1冊の本にまとまり、しかも解散になるというのである。潔い性格に尊敬もする。収録された山座のうち16座は登った。
 最近登ったマブシ嶺も記録されている。大台周辺の前衛峰がいくつか食指が湧くので参考にしたいと思う。

「山で死なない方法」研修2018年04月11日

 昨夕はJACのルームで「山で死なない方法」の研修があった。講師はY氏。過去に実際にあった鈴鹿山系の道迷いを事例に出席者との双方向での講義であった。
 ちょこちょこっとメモしておいた話の断片である。以下は出席者から出た話。
1 計画してみる
2 ついてゆくだけではダメ
3 60歳以上の人は甘い
4 転滑落事故が多い
5 計画(性)が大切
6 判断ミス・・・リーダーの負担が多い
7 ツアー登山ではスキルが向上しない
8 リスクをリスクと認識する
9 ヒューマンエラーは100%無くせない。人間は完璧ではない。 
10 リスクに対応しなさい
11 病気、突然死もある

ビバークで必携は?
1 ヘッドランプ
2 ツエルト
3 雨具
4 水、食料
5 古新聞、、マッチ、ローソク

道迷いの原因
1 思い込み
2 地図を見ていない
3 事前の検討がない
4 ついてゆくだけ
5 現在地を確認していない
6 分岐の見落とし
7 コンパスを見ていない
8 リーダーの不在(筆者の発言)・・・おかしいという人がいない
9 自覚したら分かるところまで戻る 
10 迷ったら動かない。下手に動くと死亡もありうる。
・・・・主に中級者が中心の出席者が対象で、相方向で1時間30分の研修でした。
 登山においては計画性がないと漠然と取り組み、うっかり道迷いになって大いにあわてることがある。気が動転して沢を下ってしまい転落死することもある。実際にあった。
 登山だけではない、投資、起業、軍隊、行政、その他、およそ人が動くことに関しては計画が必須である。

愛知岳連総会へ2018年04月14日

 しばらくは総会のシーズンである。 
 4/4がマイクラブの総会だった。今日は上部団体の愛知岳連だった。
 来週21日は歴史研究会、22日は俳句団体の愛知県支部の総会、来月8日は同窓会クラブ、19日は仕事関係とマンション管理組合の総会、20日はJAC東海支部,26日辺りに仕事関係の上部団体と連続的に続く。
 だから明日は山へ行っておきたかった。福井県の経ヶ岳の予定だったが延期になった。再び雪だろうか。GWは例年天気は不順であまり期待できない。
 今日の名古屋城周辺の路上はクルマで埋まるほど多かった。土曜ということもあるが、金シャチ横町の開業がにぎわいを増幅しているのではないか。いつもクルマを止める三の丸も路駐で隙間もなくびっしりだった。
 岳連総会は県内各地から40名余りが出席して無事終わった。この会場もPのキャパを越えて指定外の路駐に誘導された。行事や登山技術研修などが多い割にはほとんど参加できていない。今期は積極参加を勧めたい。

訃報 湯浅道男先生13日に逝去2018年04月16日

 本日、メールで訃報が届いた。日本山岳会東海支部の第六代支部長(1990~1994)をつとめられた湯浅道男氏が4月13日逝去された。葬儀は15日に済んだ。 
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 湯浅氏は早稲田大学OBで愛知学院大学法学部教授をつとめた。後に愛知学院大学法科大学院の設立にもかかわる重要なポストについておられた。愛知県警の警察官の法律を教育するなど活躍された。
 山岳分野では、愛知学院大学山岳部を指導育成、ヒマラヤ遠征に導いた。また愛知岳連会長もつとめられた。その後、体調が悪く山岳会からは遠ざかっておられた。

 「東海山岳11号」から湯浅氏の活躍部分を振り返る

       「愛知学院大学山岳部の台頭
 この年は湯浅道男の影響で愛知学院大学の学生が多数支部行事に参加する傾向が見られる。次の飛躍に向けて徐々に地固めしていくようだ。実際に1979年11月から1980年1月にかけて市橋隆二(7805)はガウリサンカール7146mの偵察に遠征している。1980年はガウリサンカール遠征登山に沸いた。7月9日日本ネパール国際親善隊壮行会は200名の出席を得て盛会だった。26日尾上総隊長以下22名が出発。ネパールでは協力事業が行われた。同時にガウリサンカール登山が実行された。しかし、この年の悪天候と難ルートにあえなく敗退した。
 4年後の1984年に成功を見たのであるが、6号まで待てず、その喜びの言葉を5号の序で設立以来20年の「宿命の対決」とし、最後に「東海支部の創始のこころは、決して忘れてはならないと確信している。」と結ぶ。」
 中略
 東海山岳「6号の外国登山記録にはガウリサンカール登頂の報告が巻頭におかれた。5号の序の尾上支部長の喜びの言葉を湯浅道男支部長もその序文に引いて実にすがすがしい。8年間も雌伏して支部らしい登山が成功するのを待っていた尾上のこころを慮ってのことである。 このころは愛知学院大学山岳部をはじめとする若い支部員の活躍の時代になっていた。その指導者として湯浅の存在は大きかった。それだけではない。小川務と徳島和男らの天山山脈・雪蓮峰への遠征は5年間、第4次隊まで執拗に続けられてようやく落ちた。」

 個人的には湯浅支部長時代(1990~1994)に私と名古屋山岳会のO氏と野伏ヶ岳のスキー登山した時の記録を「岳人」に発表した。その記事を読まれた湯浅氏が、「あれで良いんだよ」と明るい声でお褒めいただいた。当時は他の山岳会と登山してはいけないというタブーがあったのだ。個人山行だからということでO氏がつきあってくれたものだったが、思わぬ反響があった。良く眼に留まったものである。
 支部長退任後は愛知岳連会長に就任されたが余り長くは無かったと記憶している。今となっては法科大学院の準備に追われていたのだろうと推察する。最後に見たのは50周年のイベントのあいさつに立たれた姿であったと思う。
 著作は私家版『たかが山登りされど山登り』の恵贈を受けたことがあった。奥山章『ザイルを結ぶとき』のなかに略年譜をまとめている。また佐瀬稔『喪なわれた岩壁―第2次RCCの青春群像 (中公文庫) 1999』の中にもクライマーとして登場する。

金シャチ横丁で会食!2018年04月20日

 昨夜は世話になった人が定年退職するというので、金シャチ横丁の宗春ゾーンのポークレストラン「岳家」で会食した。丸の内の事務所から徒歩15分くらいで着いた。約束の18時30分までにはまだ時間があったのでちょっと散策した。美しい石垣に囲まれた空堀は雑草が茂り緑一色に染まった。藤棚のある歩道も藤の花盛りである。藤の花は短いが更に短い種類だという。時間がきたので開場へ。会食の話題はさまざまに飛んだ。違った世界に住む人の話は面白いものだった。出された豚の料理は美味であった。