2017-05-04
週刊新潮の高山正之氏の変見自在と藤原正彦氏の管見妄語は必ず目を通す。今週は藤原氏の「ユーモアとバランス」の言葉があっていたく感じるところがあって断片をメモった。
ユーモアには駄じゃれから辛辣な皮肉、風刺、ブラックユーモアなど多種多様あるが、これらすべてに共通なのは、「いったん自らを状況の外におく」という姿勢である。ユーモアとはバランス感覚の跨張された表現と言ってよい。対象にのめりこまず距離をおく。ラットレースから距離を置く。内発的動機。
いやあ、上述の言葉こそ川柳の本質を言い当てているではないか。イギリスのインテリとの会話から生まれた発想である。
こんな言葉に敏感になったのは、実は今、榎本一郎『俳句と川柳』を読んで、俳句と川柳の違いを学んでいるからである。私の世話をする句会にも自分は川柳をやりたいと悩んでいる男性がいるが、それなら辞めて自分で勉強するかというとそうでもない。松山市出身ということが俳句への内発的動機の一つであるに違いない。私は、俳句も川柳も俳諧の仲間という以上の違いを説明できなかった。
特に川柳は内実をしっていても身分を明らかにできない人が皮肉をこめて詠んできたものと思った。
役人の子はにぎにぎをよく覚え
子が出来て川の字形りに寝る夫婦
かみなりをまねて腹がけやっとさせ
ひんぬいた大根で道を教えられ
どれも記憶に残りやすい江戸川柳である。
それでこの本を見つけて飛びついた。読んでも中々難しいものである。詳細すぎて理解が進まない。
俳句は若者にも詠まれていて人気上昇中であり、川柳も年一回はどこかの会社が優秀作として発表している。どちらも根強い人気がある。
俳句はホ句の独立した文芸、川柳は平句にルーツがあるという。
俳句の観賞文を書くために多くの俳句から選別する。ふと思うのは連用形で結句する俳人がいることだ。連用形で結句すると川柳に思えてならない。所属の結社誌にもそんなことを書いた覚えがある。前の主宰は特に俳諧味とか、諧謔をよく強調された。
最近読んだ加藤耕子氏の句集『空と海』から
原生林蛭に身の血を分かち合ひ
をして「作者は蛭に吸血されても、身の血を分ち合い、と平然としている様子が諧謔を呼ぶ。 」と書いた。一般的には吸血中だから忌み嫌うものという常識がある。じっと自分の体の血を吸う蛭を観察して一句をなしているのだから俳人精神の賜物といえばそうか、と思う。しかし、可笑しいのである。「かまととぶる」かのようなこらえる笑いを呼ぶ。それは上品な笑いとはいえる。笑いをとるための笑いではないからだ。
この俳句の川柳との違いは初句で切れていることと季語の認識である。しかし何となくしまらない気がする。脱力感をぬぐえない。
現代俳人の指導者は俳句の立句性を忘れたか、詠めないのか、あるいは嫌い、平句に向かっているのだろうか。日常をちょいと切り取って作句することを指導する。足元にこそ詩の原点があるかのような発言も目にする。
ある短歌会でも旅行による観光的な詩歌をこっぴどく批判し、芭蕉のような行き倒れ覚悟の旅で作った詩歌は高貴だと発言する先生がいた。ちょっと言い過ぎである。
川柳の穿ち(着眼点)は「いったん自らを状況の外におく」という姿勢がないと詠めない。俳人は状況と一体になっているふしがある。私は自然と一体になった時に詠める。また見えているのに見ていないことを思い起こさせる。俳句でその状況を思い起こせる。
本書を読むと、川柳でも指導的立場の人の主張は様々で一筋縄ではいかない。それでも榎本氏は川柳をあらわす文芸と結論する。俳句は切れにあるとする。国際化をにらんでのことである。夏石番矢氏の指摘を引用して外国人がHaikuを詠めば季語と五七五も捨てられるそうだ。残るのは切れだけということらしい。
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