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名古屋からは県道、R248、R1を走り登山口の御油に着く。快適なR1をぼんやり走っていると名電赤坂駅で右折するはずが、御油駅の表示に行過ぎたことを知った。右折して江戸時代の面影の残る狭い東海道を走る。すると宮路山の立派な道標があって左折する。あとは登山口まで一本道だった。林道の途中に大きな登山口の看板があり、Pもあった。1台分残っていた。新しいトイレもあってハイカーは多いようだ。
登山口には中型バスが路駐してあり、団体のようだ。11時52分。Pからすぐに山に取り付く。子連れとすれ違う。空身やランナーもいてすれ違う人に挨拶を交わす。12時7分、宮路山頂へは約15分ほどで361mの山頂だった。標高差は60mほどだから早いわけだ。山頂には鍋を囲む若い人で賑わっていたからあのバスは彼らだろう。
三河湾や東三河平野の写真を撮ると、12時10分すぐに五井山への縦走路に入る。道の周囲は樹林に覆われて展望はない。早春の風が時折吹いて体が温まる気がしない。起伏は少ない。65分で五井山頂に着いた。
ここも何やら火器と食材を持ち上げて楽しそうにやっている。みんな若い団体である。山ガール風の2人連れもいた。宮路山よりは五井山の方がより三河湾をワイドに眺められる。下草はカヤトで今は狐色だが5月ともなれば緑に変わる。良い山である。
山頂で会った人に聞くと岡崎市の人で30分くらいで来れそうだった。毎日でも登れるね、と笑った。愛知県の山はみな登ったそうである。山岳同定するうちに、あれが遠望峰というので、それは反対でしょ、というと富幕山だ、と訂正した。今あの山の向こうは高速になっているよね、と話を振った。しばし、三遠南信道路の話になった。よく登っている人のようである。
昼食を済ませて写真をバンバン撮った。今日は見えないが、晴れれば南ア方面も見えるようだ。
13時50分、目的を果たしたので宮路山へ往路を戻る。14時前後、いくらかは早く着いた。正午よりもガスが晴れたので撮影をする。1人、目薬を刺すので聞くと花粉症らしい。往復で山中でマスクをしている人に何人か会ったがみな花粉症なんだ。
宮路山からPに下った。車は4台に減っていた。また御油に下った。御油のイチビキ第一工場の外観を撮影した。御油松並木の資料館を見学した。東海道の家の配置図が掲示してある。その中に大津屋の屋号を見た。イチビキの旧名社名である。係員に大津屋の創業者・中村慶蔵さんの墓を教えて、と尋ねると略図を描いてくれた。
地図を見つつ細い道を縫って行き、御油墓苑のPに着いた。教えられた通り行くと細い階段道があり、辿ると木立に囲まれて一般の墓地と隔離されて代々の墓石があった。想像したよりは地味であった。
中村慶蔵は1883(明治16)年に宮路山の山麓の御油町で生まれた。1919年に大津屋株式会社(昭和36年にイチビキに改称)を設立し、新製法のみそ・しょうゆの生産に乗り出す。1970(昭和45)年に88歳で御油町に没した。
大正10年、38歳でJACに入会(名簿は幼名の慶介)。登山暦は分かっていない。当時の名簿には岡崎の志賀重昂(37番、名誉会員)、柳田國男、福沢桃助(1868-1938、日本の電力王と呼ばれた)、藤山愛一郎、日高六郎、槇有恒、小島久太(烏水)、赤沼千壽、百瀬慎太郎、伊藤孝一(481番)らの錚々たる会員がいた。富裕層、成金、学者、政治家など、当時の山岳会の雰囲気が伝わって来ようというものです。中村慶介は家業のみそ・しょうゆの生産を守りながら、このような人らに混じって大正昭和の時代を生きたのです。
山が好きだったから宮路山や五井山にも登ったであろう。山の気に包まれて安らかに眠る中村慶蔵の墓を後してまたR1を走って帰名。
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